浅析芥川龙之介作品中对善的追求和利己主义的矛盾——以《鼻子》、《罗生门》及《蛛丝》为中心毕业论文
2021-05-25 22:54:17
摘 要
在日本的文坛上曾经闪烁着这样一颗璀璨而耀眼的明星:他的一生虽然短暂然而却留下了一部部永垂不朽的经典之作,为世人所津津乐道,他便是素有“鬼才”之称的芥川龙之介。迄今为止芥川已逝世将近90年,但他的文学成就却依旧举世瞩目,他仍然是日本国民心中永恒的且令人敬仰的文学奇才。他的作品也丝毫不曾褪色依旧深受日本国民喜爱,不仅如此,那些在他短暂的生涯中创作出的经典著作在世界上也广为流传,享誉盛名。他的代表作有《鼻子》、《罗生门》、《地狱变》等,这些作品都将人性最真实的一面表现得淋漓尽致。
事实上,每个人都在善与恶的临界线处彷徨犹豫,挣扎徘徊,每个人都无法摆脱这种与生俱来的利己主义的劣根性但同时又无法舍弃心底对善的向往和追寻,因此人类往往生活在善与恶的矛盾中。这篇论文试图通过对芥川龙之介的三部短篇小说《鼻子》、《罗生门》、《蛛丝》中形形色色的人物的行为,语言,心理等方面的深入分析,从而挖掘出人性中共存的丑陋和美好,同时进一步揭示出人类在善与恶的选择中的无奈与矛盾情感。最终我试图将芥川的经历,创作背景与作品结合起来诠释芥川文学的特色与魅力所在,借此将重塑出一个完整的芥川形象。
我的论文共分为四部分。第一部分是对芥川作品中的利己主义的深入剖析以及不同场合下所表现出的不同的利己主义。第二部分是芥川作品中流露出的对善的追求的细致刻画以及善的不同表现形式。第三部分是对这种利己主义和向善的渴望的矛盾心理的原因分析。第四部分将这几部作品结合起来共同呈现出芥川内心的苦痛与矛盾,从而将一个完整而真实的文学巨匠展现出来。
关键词:芥川;利己主义;善恶观;矛盾
要 旨
日本の文壇においては、芥川龍之介はキラキラと輝いた星のような存在だったと言える。彼は「鬼才」とも呼ばれる。彼の一生は短くて、不幸だったが、数多くの優秀な作品を創作した。今まで芥川は亡くなってからもう90年近くなった。ところが、彼の文学成果は依然として世間に注目されている。彼は日本人から尊敬され、人々の心の中に永遠に残っている文学「鬼才」である。それに彼の作品は日本の一時代を代表して、日本人から愛読されたにも関わらず、世界中に広がって、高く評価されている。『鼻』『羅生門』『地獄変』を代表とする作品は人間の姿をリアルに描いて、人間性を徹底的に暴いている。
実は、人々はいつも選択に苦しんで、善と悪の界に迷って、なかなか決まらない。人間は生まれつきの利己主義という悪質から逃げられないし、善への追求も捨てられないので、結局善と悪の矛盾に苦しんで過ごしている。本論は芥川の三つの短編小説すなわち『鼻』『羅生門』『蜘蛛の糸』における色々な人から入手し、その言葉、動作、心理及び性格を詳しく分析して、人間性の美しさと醜さをあばいて、更に善悪の選択の矛盾の感情を明らかにしてみよう。最後に、芥川の経歴、創作背景と作品を結んで、芥川文学の特徴と魅力を述べて、人々に完璧な芥川を見せようと思う。
本論は四つの部分に分けて論じている。第一部分は芥川の作品における利己主義について、それぞれの場合の利己主義をちゃんと区別し、深く分析する。第二部分は作品の中に現れている善への追求の表現及び異なる善の表現形式である。第三部分は利己主義と善への追求の矛盾の人間性の原因についての探究である。第四部分はこの三つの作品を結び、芥川の作品における善悪の矛盾という共同の趣旨を通じて、作者の内心の辛さと不安を明らかに浮き彫りにしてみろう。
キーワード: 芥川龍之介;利己主義;善悪;矛盾
目 次
1 はじめに 1
2 芥川の作品における利己主義 3
2.1 生死を前にして悪への選択 3
2.2 傍観者の利己主義 4
2.3 他人を損害する利己主義 4
3 芥川の作品における善への追求 6
3.1 悪い道を選択する前に正義の表現 6
3.2 傍観者から弱者への同情 7
3.3 悪人を救うことで善への希望 8
4 善悪についての矛盾心理の原因 9
4.1 人間の本初から 9
4.2 社会の価値観 10
4.3 作者の創作背景及び成長体験 11
5 『鼻』『羅生門』『蜘蛛の糸』における共同の趣旨 14
6 終わりに 15
参考文献 16
謝 辞 18
芥川龍之介の作品から見る善への追求と利己主義の矛盾
──『鼻』『羅生門』『蜘蛛の糸』を中心に
1 はじめに
日本の文壇においては、芥川龍之介はキラキラと輝いた星のような存在だったと言える。彼は「鬼才」とも呼ばれる。彼の一生は短くて、不幸だったが、数多くの優秀な作品を創作した。
今まで芥川は亡くなってからもう90年近くなった。ところが、彼の文学成果は依然として世間に注目されている。今まで、彼の作品はもう40カ国で翻訳され、470あまりの訳文に至る。『羅生門』という作品だけは30種類言葉の訳本がある。彼は日本人から尊敬され、人々の心の中に永遠に残っている文学「鬼才」である。それに彼の作品は日本の一時代を代表して、日本人から愛読されたにも関わらず、世界中に広がって、高く評価されている。『鼻』『羅生門』『地獄変』を代表とする作品は人間の姿をリアルに描いって、人間性を徹底的に暴いている。
芥川は名門の家で生まれ育て、子供の頃からいい教育を受けたので、文学に興味が深い。彼は森鴎外と夏目漱石と鼎立し、大正時代の代表作家として近代文学へ深い影響を与えた。ところが、彼の文学成績が素晴らしいであるが、彼の生活は苦しくて、順調ではなかった。彼は子供の頃からずっと養父母に育てられ、父母の愛を心から望んでいる。彼は家庭からの反対で彼女と別れて、その辛さをしみじみ感じて、人間性の悪さと利己主義を嫌がるが、現実と家族に屈服仕方がない。それだけでなく、資本主義の影響を受け、人々はますます自分を中心になり、冷淡になりつつある。これらの体験は芥川の作品に深い影響を及ばした。
実は、人々はいつも選択に苦しんで、善と悪の界に迷って、なかなか決まらない。人間は生まれつきの利己主義という悪質から逃げられ難いし、善への追求も捨てられないので、結局善と悪の矛盾に苦しんで過ごしている。本論は芥川の三つの短編小説すなわち『鼻』『羅生門』『蜘蛛の糸』における色々な人から入手して、その言葉、動作、心理及び性格を詳しく分析して、人間性の美しさと醜さをあばいて、更に善悪への選択の矛盾の感情を明らかにしてみよう。最後に、芥川の経歴、創作背景と作品を結び、人々に完璧な芥川を見せようと思う。
本論は四つの部分に分けて論じている。第一部分は芥川の作品における利己主義について、それぞれの場合の利己主義をちゃんと区別し、深く分析する。第二部分は作品の中に現れている善への追求の表現及び異なる善の表現形式である。第三部分は利己主義と善への追求の矛盾の人間性の原因についての探究である。第四部分はこの三つの作品を結び、芥川の作品における善悪の矛盾という共同の趣旨を通じて、作者の内心の辛さと不安を明らかに浮き彫りにしてみよう。
2 芥川の作品における利己主義
芥川の多くの作品は利己主義という主題をめぐって展開している。ここで芥川の三つの作品すなわち『鼻』『羅生門』『蜘蛛の糸』からその利己主義の主題を細かく探究しようと思っている。
2.1 生死を前にして悪への選択
利己主義は人間性の暗い一面を代表する習性として、誰でも徹底的に捨てられ難い存在である。特に、生死を前にして、心の中からの利己主義はさらに強くなる。
『羅生門』という作品は下人が生死を前にして悪への選択を自然に表現した。災難のせいで、下人の主人公は解雇されるし、あいにく雨も降り出すし、食べ物も住所も見つけられない主人公は強盗になる考えを頭に浮かべてきた。ところが、この時の主人公は飢餓という理由だけで強盗になる意欲があまり強くない。彼は餓死という考えさえもある。この二つの選択に散々悩んだ挙句、主人公はやはり悪い道を選択した。正直に言うと、彼はこの悪い道を選択する結果は本意ではなかった。あのお婆さんの嫌い行為と言葉はこの選択を促す要因であると言えよう。なぜかというと、最初は女の死骸の髪を一本ずつ抜いているお婆さんを見ると、下人はこの行為に対する激しい憎悪を感じるからである。下人は老婆の残酷な行為を許せないで、老婆を殺そうと考えている。しかし、「この死骸の髪を抜かないでは、わしは飢え死になるから、そうしなければならない」という老婆の解釈は下人の考え方を変わった。元々下人は強盗になろうと考えたことがあるが、なかなか勇気が出されない。ところが、下人は老婆の話を聞いて、意外に勇気が出るので、強盗になろうと決心した。今までの善良の考えは全て失って、悪い道を選んでしまった。結局、下人は老婆の着物を剥ぎ取って、夜の闇で消えた。
生死を前にして、下人は悪い道を選ぶのは利己主義への屈服である。誰でも心の中に潜んでいる利己主義から逃げられず、生のために全ての善を捨てるのは一般の選択であろう。下人の選択は彼一人の選択だけではなく、平凡な人々の選択を代表すると言える。この結果は人間性の悪い一面を素直に見せて、人間の利己主義をほどほど現れている。
2.2 傍観者の利己主義
『鼻』という作品の中に禅智内供は長い鼻があるので、人々の笑い種になった。彼は自分のおかしい鼻にこだわり、毎日苦しんでいる。不便な鼻それ自体よりもその鼻によって他人から傷つけられた自尊心にあることが内供は鼻を苦に病んだ主な理由である。だから、内供はいろんな方法を試み、鼻子を短くしようとする。果たして内供はこの夢を実現して、鼻子を短くなった。ところが、昔より他人からの嘲笑はかえって激しくなった。実は、内供の鼻子は長くても、短くても、事実は全然変わらなく、彼は依然として笑い種になることに違いない。なぜかといえば、内供の変な鼻子はもう他人の平凡な生活の楽しみとして、他人の優越感を満たす役を演じているからである。その代わりに、もしこの変な鼻子は普通の鼻子になったら、人々の優越感が失ったので、彼らはよりおかしそうな感じがする。さらに言えば、変な鼻を持っている可哀相な内供に対して、人々は優越感を抱き、同情もできたのに、その変な鼻が無くなってしまったことで、妬みがある攻撃的な嘲笑に転換するのは傍観者の利己主義という人間性の表現であろう。
実際に、この変な鼻子は内供の不幸を意味すると思っている。元々は誰もこの長い鼻子に多少の同情を抱いて、面白いと感じながら、嫌いではない。しかし、この変な鼻子を失った後、この同情心も全然失ってしまった。
芥川は「人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。」[1]こういう評論が徹底的に傍観者の利己主義を明らかにした。
2.3 他人を損害する利己主義
利己主義は自分の利益を優先し、自分のことが最も重要だと考え、自分の目標を実現するために何でもやりたいということである。正直に言うと、人間としては誰でも多少の利己主義があると思う。ある程度で、利己主義はただ人々の心に潜んでいる欲望であるので、それは別に悪いとは思わない。ところが、もし自分の利益のために、他人を損害して、他人の利益を邪魔したら、このような利己主義は必ず非難すべきだろう。
『蜘蛛の糸』の中に犍陀多という男の人は地獄から抜け出せる機会があるのに、自分の利己主義のせいで、結局再び地獄の底に落ちてしまった。もし彼はあの蜘蛛の糸をちゃんとつかんで、一歩ずつ登って、ほかの人を考えなかったら必ず地獄を抜け出せることに違いない。その蜘蛛の糸は犍陀多の心底に存在する善良を意味するかもしれない。彼の善良は自分を罪と悪を象徴する地獄から救おうとするが、途中で自分の利己主義という悪い性質は善良を打ち勝ったので、彼は善良を捨てしまった。だから、彼は罪と悪をみちる地獄から抜け出せなく、すべての努力は徒労に終わった。実は、犍陀多の悲劇は自分が心底の善良をすべて捨て、悪質に屈服したせいだといえよう。人々は自分が何かの利益があるとき、一人で全部を占めて、他人に共有するはずがない。さらに言えば、自分の利益を保護するために、他人を損害する考えもある。犍陀多はこのような平凡な人の代表ではないだろうか。言うまでもなく、同じ窮地に落ちている人々は誰もその蜘蛛の糸を利用して極楽の世界に入れようとしたい。たとえ僅かな希望であっても、彼らも一所懸命に努力して、自分の願いをかなおうとする。
言うまでもなく、それらの地獄からの悪人の気持ちは理解できないわけではない。。犍陀多は自分がほかの人と同じではなく、人よりも一段抜きんでいると考え、その蜘蛛の糸は自分だけのものだと思っている。自分の下で数限りもない罪人たちが、自分の登った後をつけて登ってくるのを見ると、犍陀多は怒ったり責めたりしている。彼は自分が地獄から抜け出せればいい、他人の生死は全然構わず、自分の利益のために、他人の命を犠牲するのも合理だと思っている。彼の利己主義こそ自分の機会を失わせ、悲劇な結局に終わった。
3 芥川の作品における善への追求
周知のように、芥川の作品はほとんど利己主義という人間性についての探求である。従って、芥川の作品には人間性の悪い面に傾け、社会の醜さ及び人生の苦しさといった消極的な特徴が目立っている。しかしながら、人間の利己主義を徹底的に暴いていると同時に、芥川は自分の作品を通じて、世の中の人々に人間性の善と美しさも密かに伝えてきた。
3.1 悪い道を選択する前に正義の表現
『羅生門』という作品は下人の心理変化を詳しく分析したり、罪悪の道を選択する前にどんなに辛さと悩みを感じてなかなか勇気が出ないという気持ちを見事に描いたりしている。
作品の中にこうした描写が下人の善に向けの天性をちゃんと伝えてきた。「いや、この老婆に対すると言っては、語弊があるかも知れない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分ごとに強さを増やしてきたのである。この時、誰かがこの下人に、さっき門の下でこの男が考えていた、飢え死にをするか盗人になるかという問題を、改めて持ち出したら、おそらく下人は、なんの未練もなく、飢え死にを選んだことであろう。」「しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くということが、それだけで既に許すべからざる悪であった。もちろん、下人はさっきまで、自分が、盗人になる気でいたことなぞは、とうに忘れているのである。」[2]この二つの記述から見れば、下人は最初から老婆に対して大変嫌いで、老婆の行為を嫌がり極まりない。下人は死骸の髪を抜いていることが許せないと思って、正義のために老婆を処罰する考えさえも生じた。この時の下人は自分の悩みを全然忘れて、内心から生じた正義感はこの前の思いを勝った。
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